東京オリンピックの新競技となったサーフィン。オリンピックで金メダルを指す14歳の少女を追った。「サーフィンと生きる街」といわれる。 、千葉・一宮町の海で、鮮やかにサーフボードを操る少女。14歳の中塩佳那選手。この街に住む、日本サーフィン連合の強化指定選手。2年後に憧れる東京オリンピックで、新作として追加サーフボードには、ロングとショートの2種類があるが、東京オリンピックでは、長さ6フィット前後で、先端があっているショートボードを使用。男女それとも20人の世界的なトッピングが合いました。波を駆け上がって空中を舞う、高度なテクニックや、きれいな弧を描いて滑る美しさもポイント。中塩選手は、日本サーフィン連合のガールズランキングで、2年連続女王の座に輝いているか、次世代を支援トップサーファーたちが集まった先月の大会でも、準優勝という結果を残した。成績を持つ彼女だが、普段は、一宮町の中学校に通じる普通の女の子。得意科目は、体育だという中塩選手。さすが、身体能力は抜群。いろいろ、体育だけではなかなか、ほとんどの教科にも「普段の彼女はどんな人?」との質問には、「元気」、「明るい」、「クラスを明るくする」などの答えが。2年生の時の担任・岡澤隆太先生は、「すごく明るくて、元気がよくて、すごくよく笑う」と話した。一方で、アスリートならでははの一面も。「めっちゃ負け嫌い」、「絶対に勝つ」などの声クラスに掲載されていた3年生の決意には「全日本で優勝」、「世界ジュニアでベスト4」とあった。普段から負け嫌いで、高い目標を持っている中塩選手。 、実は彼女には、サーフィンを続けること自身が困難な時期もあった。中塩選手は、「あとは仙台出身で、(小学)2年生の1月に転校してきました。震災があった2011年3月に発生した東日本大震災。中塩選手は、もっと地元・仙台市で、子供からサーフィンをしていたが、津波より、練習ができなくなった。それでも、中塩選手は「(当時、やっぱり海に入りたいと思った?)思いました、(だから)こっちに来た」と話す。お父さんは、仕事のため1人仙台に残り、お母さんとお兄ちゃん、妹2人の家族5人で、この一宮町に移り住んできた。中塩選手は、「生活習慣に入っている。学校もたくさん、でもサーフィンのほうがとても楽しい」と語った。津波によって大好きな練習場所を奪うわれ、一時はサーフィンができない状況に直面したら、そのピンチを乗り越え、今、頂点を指す場所に立てている。中塩選手は「(東京五輪は)目標であり、夢でもあり、出たい」、「1年後、2年後には、もう日本人の選手は全員倒す勢いで勝っていたい」などと話した。